新垣直彦(あらがきなおひこ)
中部興産株式会社 代表取締役
学校を卒業後、父親が営む事業の関連で大手製薬会社へ入社。営業部、経理部、販売計画課など、各セクションを担当する。昭和51年、新垣商会入社。その後、紆余曲折を経て、昭和57年2月、中部興産設立。代表者に就任する。平成元年、中部興産を株式に改組・代表取締役に就任。平成6年には財産ドック沖縄株式会社を設立。同社の代表取締役も兼任。
■新垣直彦(あらがきなおひこ)
中部興産株式会社 代表取締役
昭和22年11月27日生まれ。沖縄県出身。
学校を卒業後、父親が営む事業の関連で大手製薬会社へ入社。
営業部、経理部、販売計画課など、各セクションを担当する。
昭和51年、新垣商会入社。その後、紆余曲折を経て、昭和57年2月、中部興産設立。代表者に就任する。
平成元年、中部興産を株式に改組・代表取締役に就任。
平成6年には財産ドック沖縄株式会社を設立。同社の代表取締役も兼任。
財団法人 日本賃貸住宅管理協会 副会長、沖縄支部長
社団法人 全国賃貸住宅経営協会 沖縄支部長
全国賃貸管理ビジネス協会 沖縄支部長
いつかはアメリカへ…
国の架け橋になることを夢見た青年時代
●松尾 ご出身は沖縄のどちらになられますか?
●新垣 沖縄県中城村という所です。約4年半程は県外に居た経験もあるのですが、それ以外はずっと沖縄。文字通り、沖縄生まれの沖縄育ちです。
●松尾 4年半県外に出られたというのは何歳頃のことでしょう?
●新垣 23歳になったばかりの頃です。最初は徳島県へ行きましてね。そちらで半年、その後、大阪へ赴き2年間営業を。さらに名古屋、東京と転々と致しました。
●松尾 そうしますと、独立された経緯も、流れの中で成るべくして成られた・・・ということで?
●新垣 ええ、当時私の父親が大手製薬会社食品事業部の沖縄総代理店をしておりました関係で、学校を卒業後、研修社員としてそちらに勤めておりました。元々、30歳になるまではいろんなところで研鑚を積みたいと考えておりましたので良い期間になったのですが、当時の沖縄は本土復帰前ですからまだ外国扱いでしてね。移動するにも常にパスポートが必要と、何かと大変でした。沖縄の本土復帰は昭和47年の5月15日。私が25歳の時ですから、沖縄から出た時は外国で、戻った時は日本という激動の時代。今振り返ると、本当に貴重な体験でもありました。
●松尾 社長はご幼少の頃から、沖縄以外の土地で生きていこうと思われたことは一度もなかったのでしょうか?
●新垣 いえいえ、外国に行きたい、いろんなものに見て触れたいという気持ちは人一倍あったと思います。アメリカに行きたくて留学の手続きまでしたくらいですから(笑)。でも実際には親からの反対を受けて行けなかった。私は9人兄弟の2番目なものですから、家庭の事情やら何やらと、いろんな弊害があったのです。
●松尾 9人兄弟というのはまた賑やかで良いですね。
●新垣 特にウチの場合は9人中8人が男、という兄弟だったものですから、近所でも結構目立つ家族だったですね。何せ兄弟だけで遊んでいても一団になっちゃいますし。
●松尾 男兄弟が8人とは、お父上、お母上にとっては頼もしい限りだったでしょうね。
●新垣 面白い話ですが、近所の相撲大会などがあると、決まって勝ち残るのはウチの兄弟でしてね。決勝戦はいつも兄弟決戦でした。で、あまりにも毎年それが続くもので、終いには村役場からも兄弟全員での出場は控えてくれと(笑)。
●松尾 なるほど(笑)。そのような逞しいご兄弟の中でお育ちになった新垣社長ですが、アメリカに行こうと思われたのはどういった経緯からだったのですか?
●新垣 高校が進学校だったこともあって英語を比較的勉強していたのと、何より語学が好きだったものですから、将来は何か、国と国とを結ぶような、架け橋的な役割を担える仕事がしてみたいと、漠然とした夢を持っておりました。実力はさておき、ジャーナリストへの憧れなども少々(笑)。大それた想いではありますが、大きな夢を抱いておりましたね。
●松尾 その想いがアメリカ留学へとつながられたんですね。
●新垣 ええ。また、仮にその想いが実現せずとも、英語が話せればいろんなビジネスチャンスと出会えるのではないかと。だからこそアメリカに行きたい!と。こういう考えは常々持っておりました。まあ私の場合は結果的には行けませんでしたが、この想いは現在も変わらず、最近私の代わりに息子を行かせたところです(笑)。
●松尾 凄いですねぇ。留学でいらっしゃいますか?
●新垣 はい、お陰様でワシントン大学に通学しております。私の代わりにというのは冗談で、息子自身が行きたいと言い出しましてね。この辺りが親子なのか、考え方が似ているようで。本当は、今でも私自身が留学したいくらいなんですが(笑)。
29歳で父の会社整理
失われた信用を取り戻すための再出発
●松尾 それはそれは将来が楽しみですね。そして新垣社長ご自身は、夢に描かれた国と国との架け橋というお仕事を今は人と人の架け橋とも言える不動産ビジネスで実践しておられると。
●新垣 私は常々、不動産という仕事は本当に奥が深いものだと思っています。不動産業ほど信用を要求されるビジネスはないとも考えます。もちろん、どんなビジネスにも信頼関係は不可欠ですが、特に不動産業はその色が濃い。そのため、当社の社訓にも一番最初に掲げている言葉が、「信用」という文字でしてね。「信用、努力、行動、実践、創造、開発」-つまり、信用を勝ち取れるよう努力し、考えて行動する。常に実践する気持ちを持ち続け、創造力をもって自分自身を切り拓く。この6つの言葉に私たちの想いが詰まっているのです。
●松尾 実に奥深く、素晴らしいお言葉ですね。お話が少し前後致しますが、新垣社長が不動産業を始められたきっかけについてもお伺いしていきたいと思います。
●新垣 沖縄本土復帰と共に、沖縄はもはや外国ではなくなったわけですから、日本国内に全てのマーケットが組み込まれましてね。そうした流れからも、その当時、私の父が経営していた会社の親会社-つまり冒頭で申し上げた大手製薬会社から、沖縄でこのまま事業を営むのであれば、合弁会社としてやらないかといった申し出があったんですよ。それに対し、父はNOと言いまして、するとメーカーからは、では沖縄に他の店舗も出店しますよ、ということで、ウチを含めて合計3店舗になったわけです。私としては本土で問屋を回った経験もあり、メーカーの力は十分に把握しておりましたし、大手の資本を入れた方が絶対に良いと父に対して猛抗議をしたのですが、受け入れられなかった。その結果、後からメーカーと合弁で出店した企業に顧客を奪われることになり、ひいては会社整理を行わなければならない状態にまで陥ってしまったのです。
●松尾 その当時、新垣社長はどのようなポジションに就いておられたのですか?
●新垣 29歳で営業部次長という立場でした。
●松尾 ほう、お若くしてかなりの要職に就いておられたんですね。
●新垣 いやいや、ただし相当の反発もありましたね。私自身は本土でメーカー本体の営業を経験していたこともあり、当時の沖縄では考えられないような事業手法を貫こうとする。これが地元の人間からするとかなり生意気に見えたんでしょうね。
●松尾 なるほど。その当時の沖縄という土地柄を想像すると、それも致し方のないことだったのかも知れませんね。
●新垣 会社の整理を行うことに関しても打診したのは私からだったのですが、当時の収支バランスを見ますと、その時点での事業撤退であれば1円の赤字にもならないという状況だったんです。それは、その当時の公認会計士に相談してみても同じ結論で、辞めるなら今だと。これ以上やると赤字が膨らむと。こうした経緯からも、敢えて会社の整理を図ったわけですが、これが厄介な事に会社倒産という噂がたってしまいましてね。
●松尾 会社を整理したことが、イコール倒産と見なされたと?
●新垣 そういうことです。で、3割から4割、会社としての資産価値が大幅にさがってしまった。例えば、1億の価値が仮にあったとしましょう。で、会社整理を掛けた場合、これが途端に6000万の価値になる。つまり4000万円は借金になってしまうということです。これはね、松尾さん。私の人生の中でも1、2を争う大きな出来事でした。結果的には4億もの借金を残してしまったわけですから。
●松尾 当時で4億というと、相当な額になりますよね。確か、昭和43年に発生した3億円強奪事件。現在の価値に換算すると、時効直前当時で20億円程であったといいますから。
●新垣 ええ。ですが、会社整理をしたこと自体は今でも間違いではなかったと思っています。もし行っていなければもっともっとマイナスが増えていたはずですから。しかし、まさか倒産の噂がたち、ひいてはここまで資産価値が下がるとは到底予想できなかった。会計士ですら読めなかった事態です。29歳の私にとっては本当に大きな試練でしたね。
●松尾 そのご年齢でその借金額・・・。通常であれば立ち直れないですねぇ。
●新垣 とは言うものの、嘆いてばかりもおれません。4億ある借金の内、2億は資産処分・・・要するに先祖代々から受け継がれてきた土地などを全て処分することで何とか賄いました。それでもまだ2億ある。これはもう私自身の力で何とかするしかなかったのです。父は心労のあまり倒れてしまっておりましたからね。
●松尾 今でこそさらっとおっしゃってますが、さぞ言葉ではいい表せないご苦労がおありだったことと推察致します。そうしますと、その後、会社の方は一旦たたまれた後、新たに興されたのでしょうか?
●新垣 はい。そのまま二次問屋としての事業を継続させていたのでは2億もの借金を返済することは到底不可能でしたし、私が代表者となって別事業の会社を興しました。
●松尾 再出発は何名からのスタートだったんですか?
●新垣 親戚縁者のみの4名です。
●松尾 まずは2億円もの借金を返済されることからのスタートだったわけですよね。
●新垣 はい。ですが、この2億はわずか2年で返済致しました。
●松尾 えーっ! たった2年で!? 一体どんな方法をとられたのですか?
●新垣 負債は最初から分かっていたことですし、発足当初から、借金返済のためのしっかりとした長期プランを立てていたのです。事業としては全くの異業種ですが、ある筋からの紹介で印鑑の販売を始めました。するとこれが驚くほど儲かった。で、借金もあっという間に返済したわけですが、あまりにも高利益であったため、途中からなんだか恐ろしくなってしまいましてね(笑)。利益だけを追求すると確かに面白いビジネスだったのですが、いつまでも続かないだろうとの考えもありましたし、人生を賭してまでやり遂げたい仕事だとは自分自身思えなかった。そうした経緯から、借金を返済出来た段階で従業員に権利を譲り、私自身は方向転換を致しました。
地域社会との共存姿勢が
地域を、ビジネスを、一層活性化させる
●松尾 紆余曲折を経験され、中部興産設立へと歩を進められた新垣社長ですが、ご創業は何年に?
●新垣 中部興産の創業は昭和57年、設立が平成元年2月8日です。現在101名の従業員が在籍しておりまして、店舗数は県内に9。ちょうど沖縄県を縦のラインで展開しております。内訳としましては、名護市、具志川、沖縄市に2店舗、浦添市、宜野湾市、泡瀬、那覇、那覇新都心の合計9店舗。今後はこのラインを横方向に広げていこうと考えておりますが、沖縄の人口から考えますと、最大でも15店舗。少し形を変えて20店舗といったところかなと。
●松尾 もともとは、管理業からのスタートだったのでしょうか?
●新垣 いえ、当初は売買からスタート致しました。不思議なことに1年目はびっくりするくらい儲かりましてね。ところが2年目は全くダメだった。で、これはイカンと(笑)。安定した企業基盤を培う意味においても、管理業をスタートさせた次第です。
●松尾 なるほど。その後、業績的には順調に?
●新垣 お陰様で順調です。当社のお客様は賃貸・売買に限らず、全体の約6割が従業員やお取引先企業といった、いわば身内からのご紹介という一風変わった形態でしてね。非常に有り難いことだと、いつも感謝しております。
●松尾 いやいや、これは驚きました!身内からのリピートが全体の6割とは凄い。しかしそれこそが新垣社長の、そして中部興産さんのお仕事に対する真摯なご姿勢の現れなんでしょうねぇ。今後の方向性としましては、やはり管理業が中心とお考えでしょうか?
●新垣 もちろん管理はメインになりますが、不動産会社だから不動産業を…という考えではなく、これからは、そこから派生する様々なビジネスを如何に有効的にチャンスに繋げていけるかが大きなカギとなるでしょうね。
●松尾 いわゆる周辺ビジネスですね。
●新垣 私どもの場合ですと、売買の方もかなり伸長してきておりますし、お陰様でリフォーム事業や保険事業も順調に推移してまいりました。また、時代の流れを考えますと、高齢者住宅や環境衛生事業、セキュリティー事業も大きな核となると考えております。さらに、沖縄という土地を考えますと、切っても切れないものが観光産業ですね。
●松尾 確かに沖縄は我が国有数のリゾート地ですし、昨年実施された時事通信社調べによると、住んでみたい都道府県第1位は沖縄というデータが出たとか。
●新垣 そうなんですよ。県民からすれば非常に嬉しく、有り難いことだなぁと。以前、NHK連続ドラマの舞台が沖縄であったことなどが要因ではないかと言われておりますが、気候風土や自然環境の良さなどが住んでみたい理由に挙げられているようです。こうした社会背景を受け、私どもが現在注力しているのが、「住みんちゅ」という一連のサービスでしてね。
●松尾 ほう。海人(うみんちゅ)という言葉は知っておりますが、住みんちゅは知りませんでした(笑) ぜひ詳しくお聞かせください。
●新垣 いわゆる本土からの沖縄移住者に対する総合サービスでして、インターネットでは「すみんちゅ」というホームページも開設しておりますし、季刊のフリーペーパーも発行するなどして、沖縄へ移住をお考えの方、転勤で物件をお探しの方へのサポートを行っております。具体的なコンテンツとしましては、物件情報や沖縄の観光ガイド、実際に沖縄に移住された皆さんへのインタビューなどが中心ですが、今後はボリュームアップを図り、住みんちゅを一つの核として様々なビジネス展開を行っていきたいと思っています。単なる物件仲介だけではなく、例えば、介護が必要な方などにはそれにまつわる様々なサービスが必要になりますし、観光であれば観光目的でお客様のニーズは異なってきますので、その場合は観光業者をパートナーに入れる。また、レンタカーが必要であればレンタカー業者をパートナーに組み込むなど、要するに住みんちゅを一つのコアとしてグループ化を図っていこうと。
●松尾 どんな形であれ、住まう方の全てのニーズにお応えしていくサービスを目指されるということですね。
●新垣 はい。住まい、そして生活における総合サポートです。まずは生活必需品が中心になりますが、将来的には多岐に渡って取り組んでいきたいですね。例えば沖縄に飛行機で来られた観光客の方がいたとしましょう。この時点だけでも、様々なニーズが発生します。飛行場からの移動手段は?食事をするには?宿泊先は?…。つまり、来られてからお帰りになるまで、これらを全てトータルサポート出来る仕組みを作らない限り、値打ちはない。ですが、無論これら全てのサポートを私どもだけで行おうとは思っていません。当社だけでなく、沖縄県全体でパートナーシップを組み、盛り上げていく。その方がビジネスとしての立ち上げスピードも速いですし、何より、中途半端なサービスを行うよりもお客様のためにもなります。誰かが儲かるという仕組みではなく、地域で活きるありとあらゆる異業種が大きくならなければ地域の発展はない。これが地域の活性化につながるのではないかと。そして、こうした発想の元に舵を取っていくことこそが地域で活きる起業家の役目でもあると私は考えているのです。
●松尾 なるほど。地域全体がグループとなることで相乗効果が生まれますし、共存することで様々なビジネスチャンスが芽生えていく。いわゆる相互扶助の精神ですね。
●新垣 ええ。沖縄には古くから共存という意味を表す「模合(もあい)」というものがあるのですが、まさしく相互扶助の精神が伝統的に培われたものです。知人友人、皆が助け合う精神が、沖縄には古くからありましてね。だから沖縄の人には悲壮感がないんです。助け合いますから。知人、友人、親戚…。周りの者が困っていると皆で助け合う。お金の問題なら皆で出し合って、助けてあげるんです。いわゆる出世払いと同じですね。
●松尾 共存共栄の精神が脈々と受け継がれる、まさに沖縄という土地ならではの事業発想。本日は非常に面白いお話が伺えました。最後に若い方へのアドバイスといいますか、メッセージがありましたらお聞かせください。
●新垣 大変おこがましく、アドバイスと言うほどのことではないのですが、やはり根気強く夢、目標を持って、実現するまで努力するという気概を持って欲しいと思います。決して途中で諦めることなく、必ず実現するんだという気持ちを持ち続けてください。
●松尾 本日は、貴重なお話をありがとうございました。
中部興産株式会社
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